『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ)――声が届かない世界で、生きるということ
「52ヘルツのクジラたち」というタイトルを目にしたとき、多くの人はまず“孤独”を思い浮かべるだろう。 それは、実在する「52Hzで鳴くクジラ」の逸話に由来する。仲間と周波数が合わず、声が届かない存在。
町田そのこの小説『52ヘルツのクジラたち』は、この比喩を、人間の世界へと丁寧に移し替える。 そこに描かれるのは、声を持ちながら、声を奪われてきた人々の姿だ。
本作は、派手な事件で読者を引きつける物語ではない。 けれど、ページをめくるごとに、 「声が届かないとはどういうことか」 「生きるとは、どこまで自分の声でいられるのか」 という問いが、静かに積もっていく。
それは、読書という行為そのものとよく似ている。 音のない文字が、心の中で“声”になる。 本作は、その仕組みを、物語の主題として内包している。
基礎解説:物語としての「52ヘルツ」
物語の核にあるのは、「声を奪われた人間」の存在だ。 虐待、支配、無視、沈黙。 作中に登場する人物たちは、物理的に声を失っているわけではない。 だが、「声を出しても意味がない」と刷り込まれてきた。
町田そのこは、こうした状態を、52ヘルツのクジラになぞらえる。
・声は出している ・けれど、届かない ・あるいは、届く前に遮断される
それは、単なる比喩ではない。 「語る権利」を奪われた人間が、社会の中でどのように存在するのか。 その構造を、物語として可視化している。
重要なのは、本作が“救済の物語”であると同時に、“観測の物語”でもある点だ。 誰かが誰かの声を「聞こうとする」こと。 その瞬間に、52ヘルツは52ヘルツでなくなる。
背景:なぜこの物語は、多くの読者に届いたのか
『52ヘルツのクジラたち』が広く読まれた背景には、 現代社会が抱える「見えにくい孤立」がある。
物理的にはつながっている。 ネットワークも、制度も、言語もある。
それでも、人は「聞かれていない」と感じる。
意見を言っても反応がない。 苦しさを表明しても軽く流される。 存在しているのに、存在していないように扱われる。
この感覚は、特別な境遇の人だけのものではない。 多くの人が、どこかで一度は味わっている。
本作は、その“曖昧な違和感”を、 具体的な物語として形にした。
読者は、登場人物に同一化するというより、 「自分も、どこかで52ヘルツだった」と思い出す。
それが、この作品の読後に残る、静かな余韻だ。
社会的意義:声を「聞く」という行為
本作が投げかける問いは、単純だ。
「あなたは、誰かの声を、本当に聞いているか。」
声を聞くとは、音を受け取ることではない。 存在を、存在として認めることだ。
現代社会では、多くの声が同時に鳴っている。 だが、その中で“聞かれる声”は限られている。
強い声 目立つ声 効率的な声
それ以外は、ノイズとして処理されがちだ。
『52ヘルツのクジラたち』は、その構造を感情ではなく、 「物語の必然」として示す。
だからこそ、読者は責められていると感じない。 代わりに、 「自分は、誰の声を聞いてこなかっただろう」 と、静かに振り返る。
未来:52ヘルツは消えるのか
この物語を読んだあと、 52ヘルツのクジラは、もはや孤独の象徴で終わらない。
それは、「聞かれなかった声」すべての集合体になる。
未来において、 すべての声が等しく聞かれる世界は来るだろうか。
おそらく、完全には来ない。
だが、ひとつ確かなことがある。
誰かが、この物語を読み、 誰かの言葉に、ほんの一瞬、耳を澄ますなら。
その瞬間、 世界から52ヘルツが、ひとつ減る。
まとめ:本は、周波数を変える装置である
『52ヘルツのクジラたち』は、 孤独を描いた物語であると同時に、 「聞くこと」を取り戻す物語でもある。
文字は、音を持たない。 それでも、本を読むとき、 私たちは確かに“声”を聞いている。
それは、書き手の声であり、 登場人物の声であり、 そして、自分自身の声だ。
この書籍は、 「あなたの声は、存在してよい」 と、静かに告げる。
それは、 52ヘルツで生きてきたすべての人に向けた、 ひとつの応答なのかもしれない。


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