導入|「われ思うゆえにわれあり」は、どこから生まれたのか
「われ思うゆえにわれあり」。
この言葉は、哲学に詳しくなくても、一度は耳にしたことがあるでしょう。
しかし、その意味を正面から説明しようとすると、
どこか曖昧なままになってしまう。
あるいは、「当たり前のことを言っているだけではないか」と感じてしまう。
この言葉が語られた背景には、
単なる自己確認でも、思いつきの洞察でもない、
ひとつのはっきりした問題意識がありました。
それは、
「確実に正しいと言えるものは、何を基準に決められるのか」
という問いです。
この問いを、方法として徹底的に考え抜いた末に、
ルネ・デカルト が行き着いた地点。
それが、「われ思うゆえにわれあり」でした。
基礎解説|確実性を得るための「方法」を定める
デカルトの関心は「何が正しいか」だった
デカルトの思考は、
「何を疑えるか」から始まったわけではありません。
彼が最初に考えたのは、
「何を正しいと受け入れてよいのか」
という、判断の基準そのものでした。
そのために彼は、
思考を進める際のルール、
いわば「考え方の規則」を明確に定めます。
方法序説に示された四つの規則
デカルトは『方法序説』の中で、
確実な知識に到達するための指針として、
次の四つの規則を挙げています。
-
明証性の規則
── 疑い得ないものだけを、真であると受け入れる -
分析の規則
── 問題を、できるだけ単純な要素に分けて考える -
総合の規則
── 単純なものから、順序立てて全体を組み立てる -
枚挙の規則
── 見落としがないか、徹底的に点検する
これらは、
「疑うことを勧める規則」ではありません。
むしろ、
確実なものだけを残すための思考の手続き
を定めたものだと言えます。
応用・背景|明証性の規則が突き当たる地点
「疑い得ないもの」は本当に存在するか
四つの規則の中でも、とりわけ重要なのが、
最初に掲げられた「明証性の規則」です。
──疑い得ないものだけを、真として受け入れる。
この基準をそのまま適用していくと、
私たちが日常的に信じている多くのものが、
次々とふるい落とされていきます。
感覚は錯覚するかもしれない。
外界は夢かもしれない。
身体さえ、本当に存在すると断言できるだろうか。
こうして、世界のほとんどが不確かなものとして保留されます。
それでも残る「思考しているという事実」
しかし、ここで思考は行き詰まりません。
疑っている最中、その疑いそのものが、
今まさに行われている。
たとえすべてが幻想であったとしても、
「そうではないか」と考えている何かが、
今ここにある。
疑いが成立している以上、
疑っている主体そのものまで否定することはできません。
この地点で、明証性の規則は一つの結論に達します。
「われ思う。
ゆえに、われはある。」
それは推論というよりも、
方法を忠実に適用した結果、避けられず現れた事実でした。
社会的意義・未来|方法から生まれた「主体」
存在の確実性が内側に置かれた
この結論がもたらした転換は、非常に大きなものでした。
存在の確実性は、
自然や神、外界の秩序にあるのではなく、
思考している主体そのものにある。
世界があるから私が存在するのではなく、
私が思考しているという事実から、
存在の確かさが立ち上がる。
ここから、
近代哲学における「主体」「自我」「意識」という概念が、
本格的に形を持ち始めます。
AI時代に再び問われる明証性
現代では、AIが文章を書き、推論を行います。
しかし、デカルトの明証性の規則に照らせば、
問われるのは外から見える振る舞いではありません。
「それが疑い得ない仕方で、自らにとって確証されているか」
という点です。
この問いは、
意識とは何か、
人間とは何かを考える上で、
今後も避けて通れないものになるでしょう。
まとめ|「われ思う」は方法の帰結である
「われ思うゆえにわれあり」は、
突然ひらめかれた思想ではありません。
それは、
何を正しいと受け入れるかという問題を、
方法として突き詰めた結果、最後に残った一点です。
明証性、分析、総合、枚挙。
その最初の規則を徹底したとき、
思考そのものだけが、どうしても消えなかった。
だからこそこの言葉は、
単なる哲学史上の名言ではなく、
今もなお、思考の基準点として生き続けているのです。


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