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代数学の歴史とは何か:未知を操り、世界の構造を読み解く“抽象思考”の進化

目次

① 導入・背景:数を「操る力」が生んだ知の大陸 ― 代数学という思考の革命

私たちは日常のあらゆる場面で「数」と向き合っている。買い物での計算、家計の管理、データ分析、AIの学習モデル――どれも数字なしでは成り立たない。しかし、数字をただ「数える」だけの世界から一歩踏み出し、数字そのものを「操作する」「変形する」「未知のものを導く」ための言語を人類が手にしたとき、数学はまったく新しい地平を切り開いた。それが「代数学(algebra)」である。

代数学とは、単なる計算の技術ではない。むしろ、それは「数と数の関係性」を抽象的に捉え、そこから普遍的な法則や構造を見抜くための思考法だ。方程式の解法や記号操作といった基本的な道具立てはもちろんのこと、現代に至っては群論・環論・体論など、数や演算の根本的な性質を研究する巨大な理論体系へと発展している。その背後には、「具体を離れ、抽象の中に本質を見る」という、数学的思考の核心がある。

歴史をたどれば、代数学は「未知の数を求める術」として誕生した。古代メソポタミアでは、農地の面積を求めるために方程式が用いられ、古代ギリシャでは図形的な思考の中から「数式」という表現が芽生えた。やがてイスラーム世界の学者たちが「al-jabr(補完・再構成)」という考えを発展させ、これが「algebra(代数学)」という言葉の語源となる。数千年にわたる人類の試行錯誤の積み重ねが、今日の抽象代数学や計算代数システムの礎となっているのだ。

なぜ代数学がこれほど重要なのか――その理由は、私たちが「未知」と出会うたびにそれを「既知」に変える力を与えてくれるからだ。たとえば、未知の量 x を方程式の中で扱うことによって、まだ見ぬ結果や未来の数値を論理的に導き出すことができる。この「未知を扱う技術」は、科学や工学だけでなく、経済・情報・哲学といった広範な領域にまで影響を及ぼしている。現代社会の根幹をなす暗号理論や人工知能のモデル構築も、代数学の理論なしには成立しない。

本記事では、そんな代数学の歩みを「歴史」という時間軸の上でたどりながら、その本質と未来を読み解いていく。古代の土地測量から始まった数式の探求が、どのようにして抽象の極みにまで到達したのか。そして、その思考はなぜ今なお私たちの知性を拡張し続けているのか――代数学の歴史は、単なる数学の一分野ではなく、「人間が世界を理解する方法の変遷」を映し出す壮大な知の物語なのである。

② 基礎解説・前提知識:記号が生んだ「抽象の言語」としての代数学

代数学という言葉を聞くと、多くの人は「方程式を解く計算のこと」と思い浮かべるかもしれない。確かにそれは代数学の入り口ではあるが、本質はもっと深い。代数学とは、数や量を記号で表し、それらの関係を一般化・操作するための抽象的な言語であり、「未知を既知へと変えるための思考装置」だといえる。

まず、代数学の基本的な出発点は「変数(未知数)」の導入にある。算術が具体的な数(1、2、3…)を扱うのに対して、代数学は未知の値を文字(例えば xyz)で表す。こうすることで、単なる「計算問題」から、「どんな数にも通用する一般的な関係式」へと世界が広がる。たとえば、

2x + 3 = 11

という式は、特定の数値を代入しなくても、その構造だけで「どんな x に対してもこの関係を満たす条件」を表現できる。これは、数式を「問題の抽象的なモデル」として使うことを意味しており、代数学の最も重要な特徴だ。

次に、代数学の根幹をなす概念のひとつが「方程式(equation)」である。方程式とは、「ある関係を満たす未知の数を求める」ための表現であり、代数学はその解法を通じて論理的な思考力を育んできた。一次方程式、二次方程式、連立方程式など、どれも未知数と既知の数の関係を整理する手段であり、「解く」とは、その背後に潜む数の構造を明らかにする行為でもある。

さらに重要なのは、代数学が「構造」という概念へと進化した点だ。もともとは方程式を解く技術であった代数学は、次第に「加法や乗法といった演算の性質」を研究する方向へと発展した。ここで登場するのが、現代代数学の基礎をなす群(group)環(ring)体(field)といった抽象的な構造である。

  • 群:「ある演算がどのように繰り返されても一貫した結果を持つ集合」を扱う。例えば整数の加法は群の代表例である。
  • 環:加法と乗法の2種類の演算を同時に考える枠組み。多項式の世界などがこれにあたる。
  • 体:加法・乗法に加えて割り算も定義できる構造。実数や有理数は体の典型である。

これらの抽象的な概念は、一見すると日常から遠いように思えるかもしれない。しかし、現代の暗号理論やデジタル通信、機械学習のアルゴリズムといった先端技術は、まさにこれらの代数的構造の上に成り立っている。代数学を理解するということは、単に計算のルールを覚えることではなく、「世界をどのような構造として捉えるか」という視点を身につけることでもあるのだ。

最後に押さえておきたいのは、代数学が「記号による思考」を可能にしたという点である。数や量の関係を文字で表すことで、私たちは現実世界の現象を数式としてモデル化し、未知の状況を予測し、解決策を導き出せるようになった。記号化によって生まれた抽象性こそ、代数学の最大の価値であり、それが科学・技術・社会のあらゆる領域へと波紋を広げていったのである。

このような基礎を踏まえた上で、次章では代数学がどのような歴史を経て発展してきたのか――その壮大な知的旅路をたどっていこう。

③ 歴史・文脈・発展:未知を解く術から「構造の科学」へ ― 代数学の歩み

代数学の歴史は、人類が「未知」を扱うことを覚えた歴史でもある。算術が「既知の数を数える技術」だとすれば、代数学は「未知の数を導き出す技術」として誕生し、やがて「数そのものの性質や関係性」を探求する学問へと進化していった。その道のりは、数千年にわたる知的な冒険であり、文化や文明の交差点で育まれてきた。

■ 古代文明の始まり ― 実用から生まれた「方程式の萌芽」

代数学の最古の痕跡は、紀元前2000年頃のメソポタミア文明にまで遡る。粘土板に刻まれた楔形文字には、土地の面積や穀物の量、商取引の計算を行うための一次方程式や二次方程式の解法が記されている。これらは「具体的な値を求めるための手順書」としての性格が強く、いわば「応用数学」としての代数学の始まりだった。

古代エジプトやバビロニアの数学は、具体的な数値計算に基づいていたが、徐々に「未知の量」を記号的に扱う萌芽が現れはじめる。たとえば、「ある数に3を加えると10になる」というような問題は、今で言う \(x + 3 = 10\) の形を持っており、代数学的な発想の原型といえる。

■ ギリシャとアレクサンドリア ― 幾何から代数への転換

紀元前5〜3世紀、古代ギリシャではユークリッドやディオファントスといった数学者が登場し、代数学の思考が大きく進展した。ユークリッドは『原論』の中で、数の性質を論理的に体系化し、方程式を幾何的な図形操作として解いた。一方、「代数学の父」と呼ばれるディオファントス(3世紀頃)は、未知数を記号で表して一般的な解法を試み、後の「記号代数学」の萌芽を作った。

彼の『算術(Arithmetica)』は、未知数を文字で表し、整数解を求める「ディオファントス方程式」という概念を確立した点で画期的だった。これは、数を「具体的な量」ではなく「抽象的な対象」として扱うという、代数学の方向性を決定づける転換点だった。

■ イスラーム黄金期 ― “al-jabr” の誕生と記号化への道

8〜13世紀のイスラーム世界は、代数学の歴史において決定的な時代となった。9世紀の数学者アル・フワーリズミー(Al-Khwarizmi)は、一次・二次方程式の体系的な解法を著書『アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ(Al-jabr wa’l muqabala)』にまとめた。ここで用いられた「al-jabr(再構成)」という言葉こそが、のちの「algebra(代数学)」の語源となる。

彼の仕事の意義は、単なる方程式解法を超えて、「未知数の操作」を明確なルールとして定式化したことにある。この段階で、代数学は実用の技術から一歩進み、理論的な枠組みを持つ学問へと変貌を遂げた。

■ ルネサンスと近代 ― 記号と一般化がもたらした飛躍

15〜17世紀のヨーロッパ・ルネサンス期は、代数学が「記号の言語」として成熟する時代だった。フランソワ・ヴィエトは未知数や定数に文字を使う記号体系を導入し、方程式を一般形で表現できるようにした。これにより、代数学は「特定の問題を解く技術」から「普遍的な法則を表す言語」へと変貌する。

16世紀にはカルダーノやフェラーリらが三次・四次方程式の解法を発見し、解析的手法が大きく進展した。また、17世紀にはデカルトが幾何と代数を融合させた「解析幾何」を創始し、代数学は自然現象のモデル化という新たな役割を担うようになった。

■ 近代以降 ― 「方程式」から「構造」へ

19世紀に入ると、代数学は再び大きな転換点を迎える。ガロアは方程式の解の存在条件を「群」という新しい概念で説明し、これが抽象代数学の出発点となった。群論の誕生は、代数学を「解法の学問」から「構造を研究する学問」へと進化させ、環論・体論・加群論といった現代代数学の基盤が築かれていく。

20世紀以降、代数学は数学の他分野とも深く結びつき、数論・幾何学・論理学・物理学・情報科学へと応用が広がった。今日では、暗号技術、符号理論、量子計算、さらには機械学習のアルゴリズムまで、代数学の概念は社会の根幹を支える存在となっている。

こうしてみると、代数学の歴史とは、単なる計算の技術が「未知への思考法」として成熟し、「世界の構造を読み解く科学」へと変貌していった過程そのものだと言える。次章では、この抽象的な理論がどのように現実の世界で応用されているのか、具体的な実例を見ていこう。

④ 応用・実例・ケーススタディ:抽象理論が現実を動かす ― 代数学の力が活きる場面

「代数学」と聞くと、多くの人は学生時代に取り組んだ方程式や記号操作を思い出すかもしれない。しかし、現代社会を支えている技術や仕組みの多くは、まさにその「抽象的な理論」によって成り立っている。方程式を解く力は、もはや数学の中だけにとどまらず、情報通信、金融、物理、AIといった多様な分野で不可欠な基盤となっているのだ。ここでは、いくつかの代表的な応用例とその背景を具体的に見ていこう。

■ 1. 暗号理論と情報セキュリティ ― 数の構造が守る現代社会

私たちが日常的に使っているインターネット通信やオンライン決済の安全性は、代数学の理論に支えられている。とくに有限体(有限個の要素しか持たない体)群論といった抽象的な概念は、暗号技術の中核をなす。

代表的な例が、RSA暗号や楕円曲線暗号である。RSAでは大きな素数の積の分解が極めて困難であるという数論的性質が利用され、楕円曲線暗号では、楕円曲線上の点の群構造を利用して安全な通信が実現される。どちらも、代数的な構造を理解していなければ成立しない仕組みだ。

このように、私たちが「送信ボタンを押すだけ」で安全にデータをやり取りできるのは、背後で代数学が「解けない問題」を巧みに構築し、それを安全性の基盤としているからにほかならない。

■ 2. 符号理論と通信技術 ― 代数が「間違い」を訂正する

通信やデータ保存の世界でも、代数学は欠かせない存在だ。データは送信や保存の過程でしばしば破損するが、これを検出・修復する技術が符号理論(coding theory)であり、その中心には線形代数多項式環といった代数的構造がある。

たとえば、CDやDVD、インターネット通信で使われている誤り訂正符号(リード・ソロモン符号など)は、有限体上の多項式演算を利用している。これは「情報を数式の形に変換し、その構造的性質を用いて誤りを検出・修復する」というアイデアであり、代数学の応用そのものだ。

私たちがストリーミング動画をスムーズに再生できるのも、スマートフォンが正確にデータを受信できるのも、こうした代数的な仕組みが働いているおかげである。

■ 3. コンピュータ科学とアルゴリズム ― 計算の背後で動く代数

コンピュータ科学の根底にも、代数学の考え方が深く根づいている。データベース検索やグラフ探索、機械学習モデルの訓練など、複雑な計算や最適化の多くは、代数的構造の上で動いている。

例えば、検索エンジンのインデックス最適化には線形代数が活用され、機械学習の重み更新にはベクトル空間行列演算が不可欠だ。さらには、量子コンピュータの分野では、演算そのものが代数的構造(ユニタリ群や代数的数体など)の上に定義されており、「代数=計算の本質」と言っても過言ではない。

代数学は、単なる「手計算のための道具」ではなく、コンピュータが世界を処理するための「思考の骨格」となっているのだ。

■ 4. 物理学と自然現象のモデル化 ― 宇宙の対称性を読み解く鍵

意外に思われるかもしれないが、代数学は物理学の最前線でも活躍している。特に「群論」は、粒子物理学や量子力学、相対性理論などの理論構築に欠かせない。自然界の法則が「対称性」として表現されるとき、それを数学的に記述する道具が群であり、代数学的構造が物理法則の根底に存在している。

たとえば、素粒子の性質は「リー群」という連続的な代数構造で分類され、電磁気力や弱い力などの相互作用の統一理論も代数的枠組みの上で記述される。代数学は、宇宙の根源的な法則を解明するための「共通言語」となっているのだ。

■ 5. 現代経済・金融モデル ― 数式が未来を描く

代数学はまた、経済や金融といった社会科学にも応用されている。複雑な市場モデルやリスク評価のシミュレーションは、方程式や行列、ベクトル空間といった代数的道具を用いて表現される。経済モデルにおける均衡点の計算、ポートフォリオ最適化、金融工学におけるデリバティブ評価など、数えきれないほどの現代的課題が代数的手法に支えられている。

つまり、代数学はもはや数学の一分野にとどまらず、「社会の意思決定の言語」としても機能しているのである。

■ 抽象が現実を変える ― 代数学の“静かな力”

こうして見てきたように、代数学は一見すると遠い世界の理論に見えて、私たちの生活の根幹にまで深く入り込んでいる。その力は「具体を超えて抽象へ」と向かうことによって発揮される。抽象化された法則は、分野を超えて応用され、新しい技術や仕組みを生み出す源泉となるのだ。

代数学の応用とは、言い換えれば「記号で現実を操ること」である。数式という抽象の力が、社会の安全を守り、情報を正確に伝え、宇宙の真理を解き明かし、未来の選択を導いている。次章では、この“抽象の力”が持つ社会的な意味と、これからの時代にどのような役割を果たしていくのかを考えていこう。

⑤ 社会的意義・未来の展望:抽象の力がひらく「知と社会の次元」

代数学は、単なる数学の一分野ではない。それは、社会の根底を支える「抽象的な思考のインフラ」であり、文化・科学・技術のあらゆる領域に静かに浸透している。人類は、数を数えることから始まり、数の性質を探求し、ついには数そのものを超えた「構造」へと思考を拡張してきた。この流れは、現代社会の高度なシステムやテクノロジーの土台となり、今後さらに深い次元へと広がっていくと考えられる。

■ 1. 「抽象化の力」が社会の問題解決を導く

代数学が社会に果たしている最大の意義は、「複雑な問題を抽象化し、構造として捉える力」を提供している点だ。現代の社会課題――環境問題、金融リスク、感染症の拡大、AIによる意思決定など――はいずれも膨大で複雑なデータや相互作用が絡み合っており、単純な計算だけでは解決できない。だが、代数学はそれらを記号と式によってモデル化し、変数同士の関係性を整理し、解を導く枠組みを与える。

たとえば、感染症の数理モデルは微分方程式と線形代数によって表現され、ワクチン接種の最適戦略や感染ピークの予測が可能となる。経済システムもまた、代数的な均衡モデルやゲーム理論によって分析され、国家レベルの政策立案に活用されている。代数学は、複雑な現実を「構造」として捉えることで、課題解決の指針を与えているのである。

■ 2. AI・機械学習との融合 ―「代数的思考」が知能の中核に

21世紀に入り、代数学の重要性は新たな局面を迎えている。その象徴が、人工知能(AI)や機械学習との融合だ。これらの技術の多くは、表面的には統計学や線形代数の応用に見えるが、根底には「代数的構造を操作する思考」が流れている。

たとえば、ニューラルネットワークの重み更新は行列演算を基礎とし、グラフニューラルネットワークやトランスフォーマーモデルは、代数的な対称性や線形変換の考え方に支えられている。また、AIが生成するモデル自体も、しばしば「関数空間上の代数的操作」として解釈できる。未来のAIは、単なる「データ処理装置」ではなく、「代数的な推論」を内包した知能へと進化していく可能性が高い。

■ 3. 社会システムと倫理への応用 ― 数式が価値判断を支える時代

代数学の応用は、技術や科学だけにとどまらない。近年では、社会制度や倫理的な判断にも数理モデルが活用され始めている。選挙制度の公平性、アルゴリズムによる意思決定の透明性、AIの倫理的判断基準など、従来は「定量化が難しい」とされてきた領域においても、代数的なモデル化が進んでいる。

これは一見すると数学の範囲を超えた挑戦のように思えるが、「構造を記述し、関係性を論理的に導く」という代数学の本質は、社会的・倫理的な問題解決にもそのまま応用可能だ。数式は単なる道具ではなく、「価値を議論するための共通の言語」となりつつある。

■ 4. 次世代技術の土台として ― 量子計算と代数幾何の未来

代数学は、今後の技術革新の中心でもあり続けるだろう。量子計算はその代表例である。量子ビットの操作やゲートの構造は線形代数や群論の枠組みで表現され、量子アルゴリズムの設計は代数的な思考なしには不可能だ。また、暗号の未来を支える「ポスト量子暗号」においても、多項式環や格子理論といった代数的概念が鍵を握っている。

さらに、AIと数理物理学の融合が進む中で、代数幾何圏論といった高度な代数学の領域が、新しい数理モデルの設計に応用され始めている。これは、代数学が「過去の理論」ではなく「未来の技術の母体」として生き続けることを示している。

■ 抽象の果てに見える未来 ― 代数学は「思考のOS」へ

こうして見ると、代数学はもはや学問の一分野という枠を超え、「社会の思考OS(オペレーティングシステム)」と呼ぶべき存在になりつつある。私たちは数式を使って現実を表現し、モデルを通じて未来を予測し、構造の分析によって意思決定を行っている。その中心にあるのが、代数的な視点であり、記号と構造を通じて世界を理解する力だ。

未来の社会は、ますます複雑で不確実なものになるだろう。その中で、人間の知性と社会の持続可能性を支えるのは、抽象的な思考の力であり、代数学はその最前線に立ち続けるに違いない。次章では、こうした代数的思考が人間の知性や哲学にどのような影響を与えるのか――より深い思索へと踏み込んでいく。

⑥ 議論・思考・考察:代数学は「世界の見方」を変える ― 抽象思考の本質へ

ここまで見てきたように、代数学は単なる計算技術ではなく、「未知を扱う思考法」であり、「構造を読み解くための言語」でもある。しかし、代数学の本質は、実用的な応用を超えたもっと深いところ――すなわち、人間の知性そのものの在り方や、世界の捉え方そのものに関わっている。本章では、代数学をめぐる哲学的・認識論的な観点から、その意義を掘り下げて考えてみたい。

■ 1. 記号は現実を超える ― 「抽象」とは何か

代数学の最大の特徴は、「具体」を離れて「抽象」へと踏み込む点にある。未知数を文字で表すという一見単純な操作は、実は思考のパラダイムを根本から変える。数という具体的な量を手放し、「関係性」や「構造」だけを取り出して操作できるようになったとき、数学は現実の事物を超えた普遍的な法則を描けるようになるのだ。

この「抽象化」は、人間の知性にとって極めて本質的な営みである。私たちは現実の複雑な現象を、そのままの形で理解することはできない。そこにある無数の要素から本質的な構造だけを抽出し、それを記号化して思考する――代数学はその極致にある知的技術といえるだろう。

■ 2. 「未知」と向き合う思考 ― 代数学が教える知の態度

代数学が生み出した最大の革命は、「未知を恐れず、操作する」という発想を人類にもたらした点だ。古代の算術は「分かっているものを計算する」ことに重きが置かれていた。しかし、代数学は「分からないもの(未知数)」を積極的に記号として導入し、それを前提に思考を展開する。

この態度は、科学だけでなく人間の知的営み全体に通じるものだ。未知を排除するのではなく、それを前提に論理を構築し、やがて解き明かしていく――この知の姿勢こそが、自然科学を推し進め、社会問題に立ち向かう思考力の根源となっている。代数学は、単なる数式操作ではなく、「未知と共に思考する」方法論なのである。

■ 3. 「構造的なものの見方」へ ― 世界を関係として捉える

代数学が私たちに与えるもう一つの深い洞察は、「世界は対象そのものではなく、関係の網の目として理解できる」という視点である。例えば、数そのものの大きさや形ではなく、「加える」「掛ける」といった演算の性質を研究する群論・環論・体論は、個別の数値を超えて、関係のパターンそのものを対象とする。

この考え方は、現代のあらゆる学問分野に影響を与えている。物理学では力学系の対称性を、言語学では文法構造を、社会学では人間関係のネットワークを、それぞれ代数的な「構造」として捉える。世界を「もの」として見るのではなく、「関係」として捉える視点――それは、代数学が私たちの思考様式に深く刻み込んだ知の遺産である。

■ 4. 数学と哲学のあいだ ― 「存在」と「普遍」の探求

代数学が追求するのは、単なる解の計算ではなく、「存在するとはどういうことか」「普遍とは何か」という哲学的な問いでもある。ある方程式に解が「存在する」とは何を意味するのか。ある構造が「同型(isomorphic)」であるとは、どのような本質を共有しているということなのか。こうした問いは、数学の中にとどまらず、存在論や形而上学といった哲学の核心に踏み込む。

実際、20世紀以降の数学では、「構造主義」と呼ばれる考え方が広がった。これは、数学的対象を個々の実体としてではなく、それらが成す関係構造として理解する立場であり、代数学の発想と深く響き合っている。つまり、代数学は数の理論であると同時に、「存在の理論」としての顔も持っているのだ。

■ 5. 人間の思考の未来 ― 「代数的知性」への進化

私たちが今後直面するであろう課題は、これまで以上に複雑で、変化の速いものになるだろう。そのとき、必要となるのは、表面的な情報処理ではなく、「本質的な構造を見抜き、抽象的に思考する力」である。代数学は、その知性の進化の方向を先取りしているとも言える。

AIが進化し、データが爆発的に増大する未来において、人間が果たすべき役割は、「抽象の地図を描くこと」になるかもしれない。代数的思考は、膨大な情報の海の中から本質的なパターンを見抜き、予測と創造を可能にする。そして、それは単なる数式の話ではなく、人間の知性そのものの拡張へとつながっていく。

代数学とは、数を扱う学問ではなく、「思考そのものを鍛える学問」である。それは、未知と向き合い、世界を構造として捉え、普遍的な原理を探究するための道具であり、哲学であり、そして未来への羅針盤でもあるのだ。

次章では、こうして紡がれてきた代数学の旅路を総括し、私たちがこの知の体系から何を学び、どこへ向かっていくのかを改めて考察していこう。

⑦ まとめ・結論:未知を解き、世界を読み解く ― 代数学が教えてくれること

代数学の歴史は、人類が「未知」と向き合い続けてきた知的な旅の記録である。数を数えるという原始的な行為から始まり、方程式を解く技術として成熟し、やがては「数の背後にある構造」そのものを探究する学問へと進化した。今日の私たちは、スマートフォンを使い、AIと対話し、宇宙の起源を解明しようとしているが、そのすべての背後には代数学という抽象的な思考体系が息づいている。

代数学の本質は、単なる計算や解法ではない。それは、「未知を記号として捉え、論理的に操作する力」であり、「世界を関係と構造として理解する視点」でもある。この抽象的な思考は、複雑な現実を整理し、普遍的な法則を導き出し、未来を予測するための最強の道具となる。暗号技術や量子計算のような最先端技術から、社会制度や倫理的判断といった抽象的課題に至るまで、代数学はその根底に不可欠な役割を果たしている。

そして何より重要なのは、代数学が「未知と共に考える」という知の態度を私たちに教えてくれる点である。未知を排除せず、むしろそれを前提として論理を展開すること――それは、科学だけでなく人間の思考全般にとって不可欠な姿勢であり、創造と発見の原動力でもある。

未来の社会は、かつてないほど複雑で予測困難な時代になるだろう。AI、量子技術、地球規模の課題……それらに立ち向かうためには、表層的な情報処理ではなく、深層にある「構造」を見抜き、自在に操る知性が求められる。代数学はそのための言語であり、羅針盤であり、人類が次の知的地平へ進むための“思考の基盤”である。

数千年にわたって進化し続けてきた代数学は、今もなお未完成であり、未来へと開かれている。人類が新しい課題と出会うたびに、代数学もまた新しい姿へと変貌していくだろう。なぜなら、未知がある限り、代数学は終わらないからだ。私たちがこの世界を理解しようとする限り、代数学は常にそこにあり、私たちの知性と共に歩み続けるのである。

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